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「古事記」や「日本書紀」に登場する「三韓征伐」の神功皇后は、男まさりの女丈夫として描かれている。
熊襲征討にやってきた九州で、仲哀天皇が急死すると、皇后は神の御告げに従って、軍を率いて海を渡り、新羅を攻略した、というのが「三韓征伐」の物語。戦前の日本の朝鮮支配を正当化するために、この話は「史実」として使われた。
神功皇后にまつわる言い伝えは、京築各地にも多い。
京都郡犀川町の生立(おいたつ)八幡のように、仲哀天皇とともにまつられている神社もある。
千束地区に伝わる伝説
皇后の一行が千束の野田を通りかかった時、淵のほとりに出た。水量豊かで水の澄んだ淵だった。皇后はことのほかお気に召した様子で軍勢を止め、馬のひずめを洗って休息した。以来、この淵は、馬洗池と呼ばれるようになった。池が出来る前はきれいな川があり、深い淵があったという。後年川を塞き止めて大きな池を築造。地元の人はモウライ池と呼んでいる。
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馬洗池の横にある記念碑
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豊かに水を貯めている馬洗池
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周囲400mあまりの広い池で、水草の間には水鳥の群れが見られる。
戦前は、5月下旬の海軍記念日には、この池で泳ぎはじめをする人があったという。
吉木の由来
三韓征伐に向かう皇后が、才尾の行宮に滞在していた時、48艘の船を作る木材をこの地に求めた。村人は、当時吉木原にあった楠の大木を運び出してお目にかけた。
いまでは良木の名残も少ない
ひと目見た皇后は、「まことに良木(よしき)なり」とおおせられた。良木―現在の「吉木」(よしき)の由来である。
「古事記」によると、皇后が朝鮮攻略を決めた場所は筑紫国とされているのだが、なぜ遠い豊前から船材を調達したのかを説明する伝承はない。
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